2025/01/27

コーヒーでものもうよ

 日曜日の夕方、DAILYの馬詰さんとディモンシュでコーヒー。今ではDAILYの馬詰さんだけれど、出会った20年前はBORN FREE WORKSの馬詰さんだった。レンバイのnuinui 1stに、「はじめまして、ことりです」と会いにいったのは、わたしがまだ20代の頃。今はBORN FREE WORKSも、nuinui 1stもない。

月日の流れでしかつくることの出来ない、そして失うことのできないものは確かに存在する。豊かさと哀しみ、相反するけれどおなじ深さで。昨日は風に吹かれながら外のベンチで席が空くのを待っている間、とある文章の推敲(すいこう)のようなものを頼まれた。こんな日が来るのか、という感慨深い気持ちが入り混じる。当時のわたしはワークショップで文章をかくということに向き合っていた。今よりも、もっともっととんでもないレベルの散文や詩を書いていた。あれから長い時間をかけて本をつくり、気持ちを言葉にし、声に出して伝えることを繰り返してきてた気がする。頼まれて書くわけでも、依頼された仕事のために書くわけでもなく、じぶんのために、相手に伝えるために、言葉を綴ってきた。お金をもらうどころか、お金を払ってまで本をつくったりしてきた自分だけれど、「ものを書く人」とおもってもらえることは純粋にうれしい。
湘南にきたばかりの、20代だったわたしにとって、40代の人はだれもを遠くの先輩だとおもっていた。時を経て、その感覚には変化がおとづれた。先輩はおねえさんになり、おねえさんは、やがておねえちゃんみたいな存在になった今。憧れをもって東京から移住した湘南も、今ではもうずいぶん長く住んでいる。引っ越してきた当時に比べたら街はずいぶん変わったけれど、じぶんがこの土地へやってきたことで、風景を変えてしまった部分も少なからず、あるのだあろう。昨日は、そんなことをふとおもうような夕方だった。「半分食べてね」と言われたパフェを2本のスプーンでつつく。傾きそうで傾かないなプリンパフェにわらって、またコーヒーを口にする。思い出しわらいで、またわらう。わらって吹き出しそうになるコーヒー。わらいすぎて涙が流れたのに、ハンカチが見当たらない。スプーンを置いていた紙ナプキンを折りたたんで、しろいきれいな部分で涙をぬぐう。なんでもない日曜日の夕方に散りばめられた、いくつもの片鱗(へんりん)。

2025/01/24

おしえて、先輩

 昨秋あたりから修理の仕事がふえた。理由は明確。レンバイで働いたことで、対面で持ち込みと相談をしやすくなったからだろう。

企業の中でリペアの仕事に就いていたときは、ある程度のガイドラインがあった。これはやる、これはやらない。こういう方法で、こういう糸色で、というように。当然そのブランドのものだけを扱ってきたけれど、今はそうではないので、知識はあっても経験値はゼロに近い。ひとりで自宅でミシンを踏んでいると、技術の部分ではなく(そこは積み重ねるしかない)、仕事として受けるとき「こういうとき、どうしたらいいのだろう」という疑問がいくつも湧いてきた。わからなくて、聞く人もいないので、サーフボードの修理でながく仕事をしている、『Birds creation』のジョージくんに相談へ。受け渡すものもあった昨日の午後、工房へいく。ちょうど、削りたてのフォームの状態のボードに、布のようになった、繊維のグラスファイバーをまくところで、作業工程を遠くから見させてもらった。布を裁断するようにボードに沿わせてカットして、その上から樹脂みたいなものを流す。そこからは見事な早業だった。硬化との勝負なのだそう。左官屋さんのように、スクレーパーみたいなものを手に持ち、手にはゴム手袋をして、道具と手で、空気がはいらないように板に巻き付けていく。なんか、ものすごいものをみてしまった。サーフボードづくりは、細かな工程がめちゃくちゃおおくて、乾かす時間も必要で、繊細なのに作業は早技が必要で、わたしには逆立ちしても無理そうだった。息を止めてみちゃうような作業だった。
その緊張の作業が終わって、その場にいらしたTさんという男性と三人で小屋に移動して、どら焼き(Tさんの差し入れ)を食べながらコーヒー(ボトルにおとして淹れたやつ)を飲む。即席のおやつタイム。仕事のことでジョージパイセンにいろいろ質問すると、なんでも答えてくれた。業種はちがえど共通することは多々あり「そうなんだ、そんなことをしているのか…」という気持ちでいっぱいになる。仕事とボードには愛が、人には優しさがあるんだなあ、という感じ。Tさんも、ジョージはとっても優しいから、みたいなことを言っていたけれど、本当にそう思うアドバイスだった。偶然お会いできたTさんもとっても紳士的な方で、わたしの質問に対していろいろな角度でアドバイスをくださり、たまたま居合わせることができてよかった。品の良さがダダ漏れしている、博学な感じのおじさまだった。襟付きのブラウンのコットンシャツ。
これまでタイパンツはひとりで縫ってきたけれど、修理に関しては企業の中で大人数で仕事をして来たので、ここにきて急にひとりになり、わからないことがたくさん。考える、感じて考える、ということをたくさんするし、作業は緊張するしで、どっと疲れるけれど、けっこうたのしい。でも、接客業も好きだしものを売るのも好き。そんな仕事の依頼がきたらパッと立ち上がれるようにウォーミングアップしつつ、普段はミシンの技術をあげていきたい。昨日は、頭の中で忌野清志郎の「パパの歌」がずっと流れていた。ジョージくん、あんなに真剣な顔をするのかあ。緊張の作業が終わったら、マスクみたいなのを取って、いつもの笑顔に戻ったのがとても印象的だった。ブルース・リーの格言も教えてくれた愉快なパイセン。今日は今日で、わたしはわたしの仕事をがんばろう。近くにやさしい先輩がいるのは、ありがたい。

2025/01/19

ながい、いちにち

 昨日は、BLANDINの宮治夫妻に声をかけてもらい、茅ヶ崎の北側へ。眠ったままの元野球ボール工場跡地を、おもしろい場所にできないか。20代の若者たちが動きはじめたばかりの場所におじゃまする。二日位前に、ふと、一緒にどうかな?と思ったおぐちゃんにも声をかけて一緒にいく。辻堂駅までお迎えに来てくれたLOGGERの末綱さんも一緒に。

工場跡地は、想像を超えた広さ(サッカーコート一面はある感じ)と古さ(17年前に工場の稼働は終わっている)で、きしむ床にいちいちビビりながら中を見学させてもらう。この場所が若い人たちでどんな風になっていくのだろうと、ただただ漠然とした気持ちを抱えてその場をあとにする。その後、すぐそばにあるLOGGERの事務所にも、おぐちゃんとお邪魔させてもらう。末綱さんが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、三人で雑談。末綱さんとおぐちゃんの男子ふたりは、はじめまして。仕事の話など織り交ぜながら数時間話こんでおり、ことりさんは途中から猛烈な睡魔との戦い。真っ暗になった帰り道も末綱さんが駅まで送ってくれて、至れり尽くせり。末綱さんには感謝の1日。以前人から言われたけれど、ことりさんの周りの男子はやさしい人がおおい。確かに。やさしい男子、最高にして最強。
夜は、30分近く遅刻して、逗子のOHANAYAさんというお店で先輩方と新年会という名の女子会。話題の中心はイケメンとかイケボとかで、めちゃくちゃおもしろい会だった。コース料理とともに、泡、白、白、赤とワインを呑んで、ほろ酔いを越したくらいの酔っ払い状態で帰宅。ものすごーーーーーーく長く、濃い1日が終了。笑い過ぎて疲労。久しぶりにちょっとお酒が残っている感じの今朝。こういうの、ママになってからは久しぶり。

2025/01/17

ヒム・トゥー・フリーダム -自由への讃歌-

 はじめて一緒に呑む、Cちゃんと新年会。お店をどこにしようかと迷っていると「カリーノは?」と提案してくれたので、予約をとる。カリーノは、鎌倉で木曜日だけ間借りでオープンしているイタリアンで、知人の春日さんが開いている。サックスを吹く人でもある春日さん。予約した12時に店へ入ると、ジャズがかかっていた。この曲なんだっけなあ、タイトルが思い出せない。スマホでShazamをするも、開店と同時にほぼ満席となった店内、お客さまの賑やかな会話にかき消され、曲名がわからずにいた。昨晩、どうしても気になってインスタグラムのDMで質問したら、オスカー・ピーターソンの『ジョージア・オン・マイ・マインド』と判明。そうだった、ああ、スッキリ。DMの返信には、もう一曲おすすめがありますと。「『Hymn to Freedom』という曲で、とても穏やかなのですが、とても力強い曲です」と書き添えられてあった。早速Apple Musicで聴いてみると、確かにその言葉通りの音で、とても好みの楽曲だった。日本語だと『自由への讃歌』。気になってこの曲がうまれた背景を調べてみると、公民権運動に精力的に動いていたキング牧師に触発されて作った曲とのことだった。歌詞を書かずにピアノでそれを表現するオスカー・ピーターソンの才能の素晴らしさを、あらためておもう。音で、絵で、写真で、立体作品で、料理で、縫い物で。いつの時代も皆が平等に、自由への讃歌を表現できない訳ではなく、そう考えると言葉とは、「言葉さえあれば」という面が透けて見えてしまう。言葉だけで訴えられることの容易さみたいなものを、感じずにはいられない。語るよりも別の方法で表現することのほうが、もしかしたらより多くのもの伝えられ、同時に、相手に受け取る自由も手渡せるのではないか。それこそが芸術なのかもしれない。相手の自由を奪うことのない文字の連なり、選択を支配することのない言葉、いつの日か、じぶんもそんな文章を書けたなら。楽器を弾くように、演奏をするように。そんなことをおもう朝はあっという間に過ぎて、今はもうお昼。来月は生誕100周年を記念した映画『オスカー・ピーターソン』が公開されると、今しがた知った。必ずや映画館に足を運んで、大きなスクリーンで、良い音で映画を味わいたい。

2025/01/16

優先順位がバグってる

 昨日の夜、NHKの『SONGS』という番組を家族で観ていた。ミセス・グリーンアップルが好きな娘が喜ぶかなと録画しておいたのだ。「ギターうまいね」、「作詞作曲なんて、大森さん天才だね」など、おもいおもいに感想を口に出す。途中、「ピアノが弾けたらなあ、かっこいいよなあ」と夫。「ほんとだよねー、でもドラムが似合いそうじゃない?」とわたし。「バンドの話になると、昔からドラムって言われるんだよなあ」、夫が言う。「もしピアノ弾けたら、すごく繊細な音とダイナミックな感じで弾いたかもね〜」などなど。そんな流れから、自然と先日のバンドの話に。「ママは何の楽器?」と娘が聞くので「ママはボーカルとハーモニカだよ。ハーモニカはスティービー・ワンダーに憧れているから吹けるようになりたいの。スティービー・ワンダーは盲目で、ピアノもハーモニカも、歌もうまいんだよ」と、自分のことのように得意げにいう。「わたしたちのバンドは、もう課題曲も決まっているからね」と言うと、「そうなんだー」とあっさり。「シンバルが入るんだけど、タンバリンでも代用できるかな?」と聞くと「大丈夫」と夫。なんだ? 怖いくらいに話はスムーズだった。

先日、家族に宣言するよりも先にBLANDINのひろみさんに、「家族でバンドを組みたいんです」と言ったばかり。「なんて素敵な企画!」とヒロミさんに背中を押され、益々ひとりで盛り上がっていた矢先。ひろみさんには、これまでも数々の宣言をしてきた。「わたし、ニーナ・シモンになりたいんです」と言ったときは、「そうなのね。ことりちゃんの歌声はどんな声なの?」と聞かれたので「ニーナ・シモンとは遠くかけ離れた声です」とわたし。お店でレコードを聴きながら、そんな会話を繰り広げている。ひろみさんもひろみさんで、このバンドのこの曲ならば!と思っている楽曲があるらしい。同じようなテンションで同じような話を、なんどでも繰り広げられる。永遠の少女みたいなひろみさんとの会話は、いつでもふわふわと夢の中を漂っていて、そこはかとなく楽しい。順番は間違えたけれど、声に出すのはやっぱり大事なんだなあ。わたしたち家族の課題曲はゾンビーズの『This will be our year』ってタイトルなんだけど、ほんと、びっくりするくらいピッタリだと思わない?

2025/01/15

西からやってきた女の子たち

 前職の仕事で上位に入るうれしかったことは、わかい人たちに出会って共に働けたこと。中でも、関西からやってきたふたり。Rちゃん1と、Rちゃん2。Rちゃん1は兵庫県出身。旦那様の海外赴任に伴って退職し、子どもを二人連れて現在はマレーシアにいる。一見わからないが、きれいな標準語の下に隠しきれぬ関西人気質が見え隠れしていて、おもしろかったり、おそらくいらちなところもありそうで、密かにかわいいなと思っていた。ある日、前髪をぱツンとカットしてきた時があり、「どうしたの?」と聞いたら、「何か変えなきゃとおもって、前髪を切ってみました」と言っていたのが忘れられない。真面目と情熱が混在していて、ラインを送ると熱い返事がびっしり返ってくる。在職中も夏休みは毎年まるっといなくなり、家族で日本中をアクティブに旅していた。旦那様が行動的な人なのかなと思ったが、Rちゃん1もそういうことを楽しめる人なのだろう。たまーに連絡を取り合うのだが、マレーシア生活も楽しんでいる様子。

Rちゃん2は、退職と結婚と同時にオーストラリアへ行った。現在は当初の予定にはなかった大学生になり、将来に向けて勉強をしている様子。Rちゃん2とも、たまーに連絡をとる。とってもいい子で、いつも何かに気づき、そこから学んでいる。LINEの文章も流れるようになめらかで、文才を感じる。家族に愛されて育ち、彼女も家族が大好きなのであろうバックグラウンドが、透けて見えるような子。岸和田のお祭りの時期になると、熱くなっているところがおもしろい。インスタグラムを通じで彼女たちの生き方、暮らしをたのしく眺めている。20代と30代、決断と行動力で羽ばたいている姿がまぶしく、気持ちがよく、清々しい。
レンバイの店番中、退職してしばらく経つAちゃんも子どもを連れて何度か遊びにきてくれた。静岡出身の女の子。今は二児の母で奮闘中な様子。在職中のYちゃんも顔を出してくれた。若いというだけでもうみんな可愛くて、彼女たちを見ていると、自分もこんなに可愛かったのかしらと、つい、過去を振り返ってしまう。湘南に引っ越してきたばかりのあの頃、よくわからないままにいろんな挑戦をした気がするけれど、応援してくれた大人たちがたくさんいた。あの人たちは、こんな気持ちで自分を見てくれていたのかな、なんて思うようになった。
40代の今は若い人たちの姿に学びながら、先輩をみて憧れたり、勉強したり。湘南に住んで20年。20代だったわたしは40代になった。お世話になった先輩たちは当時40代、50代だったので、今まさに自分がそこに立っている。見えなかった反対側の景色を、今ようやく見られた。年をとると忘れることも多いけれど、知ることも多い。40代はキツイこともたくさんあったけれど、後半になって40代の楽しさをやっと、本当にやっと知れた気分だ。50代は、どんなだろう。まだ到底わからない世界で、見たこともない景色がこの先に続き、広がっていくのだろう。

2025/01/14

いつかは、いま

 年末年始、姉と甥っ子が叔母の住むLAに旅していた。そのお土産をもらって喜んでいたのも束の間、テレビでは山火事を伝えるニュースが連日流れている。叔母のメールによると、叔母の住むウェスト・ロスアンゼルスも空気が悪く、外出を控えているとのことだった。火元となったパシフィック・パリセイは、叔母が80年代に働いていた場所でもあるそう。アメリカに渡って10年くらい経った頃だから、きっともう、美容師として働いていた頃だろう。夢を抱いて海を渡ったアメリカで、青春を過ごした街が見るも無惨な状態になってしまった叔母の悲しみを思うと、姪っ子としてもとても辛い。美容室のお客さまも被害に遭われているとのことで、どうかこれ以上被害が拡大しないことを願うばかりだ。

春に中学生になる娘が「アメリカいってみたい」と言っていたのは年末の頃だったか。ハワイもいいけれど、そうだね、一度はアメリカに連れていってあげたいと思っていた。サンフランシスコの急勾配の街並みはもちろん、サンタモニカで美容師として働く叔母、叔母が住む家も見せてあげたい、サンタモニカピアや野球のスタジアムなど、かつてのわたしが感銘を受けたように。地震や火事や災害で街ごと無くなってしまう、という経験を目の当たりにしたことはないけれど、いつでもある訳ではないのだなと、命と同じなんだなと、今回のニュースを見てつくづく思った。
娘を妊娠した2012年初頭、夫の後押しもあって、母と二人旅をした。ロスアンゼルスと、サンフランシスコ。母は「膝が痛いからやめておくわ」とあまり乗り気ではなかったけれど、「大丈夫、大丈夫」と勝手にチケットなど手配して決行。今から10年以上前なので、写真や記憶で当時を振り返ると、見た目も体力も、お互いの若さに驚く。そして改めて思った、行ってよかった、と。叔母と母は姉妹水いらずで終始楽しそうにしていたし、途中母とわたしで中抜けしてサンフランシスコに旅したときも、母はケーブルカーのステップ乗車(手すりにつかまって立ったまま乗ること)をとても気に入って、大喜びしていた。昼も夜も何度も乗っては降りてを繰り返していたので、その様子を見た黒人の運転手さんが、「ママ、この鐘も鳴らしていいよ!」と運転席から母に声をかけてくれた。母はあまり言葉の壁を感じない様子で、いろいろな人にニコニコと対応していた。公園では、インド人の赤ちゃんを抱っこしたりもしていた。そういう母の姿は日本に居るときと何も変わらず、おおらかで人を逸らさない母らしいなと、誇らしい気持ちになった。帰国後、比較的すぐにわたしの妊娠がわかった。もしあのタイミングで旅に出なければ、簡単には母を連れてはいけなかっただろう。いつか、と思っていたらすぐに過ぎてしまうし、あっという間に年をとる。なくなってしまったり、消えてしまうこともあるのだ。命も、街も、風景も。会いたい人にはすぐに、見たい景色があれはすぐにいこうと、そんなことをリマインドさせられる、連日のニュース。一刻も早く、風がやみ、山火事が落ち着きますように。

2025/01/09

下北沢の思い出

 中学まで公立の学校に通っていたわたしは、高校受験で町田市にある和光高校に入学した。7歳上の兄が通っていたから自由な校風を含めて学校のことは把握していて、他に行きたい学校はないほど、入りたかった。とはいっても勉強は嫌いだったので、エンジンがかかったのは秋頃で、必死に勉強してなんとか補欠合格。一生分の運をつかったかも、と思うほど嬉しかった。

幼稚園と小学校は世田谷の経堂にあるので生徒の半分以上は都内の子だったけれど、神奈川県の子も結構いた。小田急線の各駅停車しかとまらない鶴川という駅から、さらにバスに揺られて20分ほどの山の上にあったので、高田馬場から1時間半ほどかけて通学していた。7時31分新宿発の急行に乗る。多摩川を越えるとき、川の水面がキラキラと光る。それを見ると学校が近づいてきたとおもって嬉しいと、母に言っていたそうだ。まったく覚えていないけれど。その言葉を聞いて、母はとても嬉しかったと、のちに教えてくれた。
神奈川方面に帰宅する子たちは、町田駅で下車して放課後に遊ぶことが多かったみたいだ。反対方面に帰る都内組は、下北沢で下車することがおおかった。シェーキーズに行きたい時は成城学園前駅で下車、カプリチョーザに行きたい時は下北沢。制服がなかったので、フランス系のファッションが好きな子はアニエスのボーダーにエルベシャプリエを背負って、アメリカ系のファッションを好む子はデッキーズのチノパンとか、男の子はスラッシャーのパーカーをきてスケボー持って、みたいなのが流行っていた気がする。わたしは当時からアメリカ好きだったので、下北沢は古着屋もおおくて楽しいまちだった。カレッジトレーナーとか、Tシャツとか、たくさん買った。あと、関西人が焼く美味しいたこ焼き屋もあって、よく寄り道をしたものだ。
下北沢の思い出のひとつに、美容室がある。姉の紹介で通うことになったのだが、マンションの一室で美容室をしているSさんという男性がいた。今思うと、あれって営業はOKだったのかな?と思うけれど、結構おしゃれな人で会話もたのしく、何年も通っていた。Sさんはのちに恵比寿でお店を出したけれど、マンションの時の秘密基地感はもうなくて、結局そこで縁は途切れてしまった。
その下北沢の美容室で、BGMとしてかかっていた曲がすごく響いて、「このCDなんですか?」と聞いたのがスティービー・ワンダーだった。『コンタクト・オン・ラブ』という曲で、なんていい曲なんだろうと、すぐにCDを買った。それがスティービー・ワンダーを好きになったきっかけ。
振り返っておもうと、じぶんの好みや方向性がけっこうしっかり見えてきたのが高校時代な気がする。好きな音楽、好きな服装や色、好きな国とか、そんなことを考えるようになった。アルバイトも、当時は雑誌で探す時代で、気になった募集があると、まずはお店に足を運んで、制服が好きかどうかを判断基準にしていた。色が好きじゃないなとか、襟が嫌だなとかおもうと、応募はしなかった。長続きしたのは西新宿にあったちいさな『ニューヨーク・カフェ』というカフェで、ひとりでお店番ができた。制服もあってないような感じで、オーナーも可愛がってくれて、一緒に波乗りしたり、スケボーしたりして。ミルクのポーションを入れる器ひとつでも強いこだわりがある人で、河童橋で柳宗理のちいさなボールを気に入って買ってきたとき、バイトの子は「なにが違うんだろうね、おなじなのにね」と言っていた子もいたが、わたしはそんなこだわりのあるYさんを尊敬していた。それが柳宗理を知ったきっかけでもある。ニューヨークへの偏愛が強く、「ミモももう少し大人になれば良さがわかるよ」と言っていた。当時のわたしは圧倒的に西海岸が好きで、のちにニューヨークもいったけれど、やっぱりカリフォルニアが好きなのに変わりはなかった。ニューヨークは都会だったけれど、都会の中にセントラルパークがある感じや、みんなよく歩くこと、眠らない感じなど、東京に似てるなと思った。素敵な街ではあったけれど、自分はやっぱり海が好き、と再確認ができた。ニューヨークにいったのは、結局その一度だけ。
振り返っておもうと、つくづく自分はなにかを決められることが苦手で、制服も、校則も、足並みをそろえることも難しいということだ。いっぽうで、美容室もアルバイトも、ちいさな場所が好きだということ。よーく、よーく記憶をたどっていくと、あまり成長していなくて、16歳くらいからなにも変わっていないことに気が付く。それは自由を得た高校生活のおかげだし、もっと言えばその前の三年間、制服を着て通った中学校生活を経験したことも大きい。娘はもうすぐ中学生。靴下はこう、ワンポイントはだめ。ヘアクリップもだめ、書類を読んでいるうちに、じぶんのことみたいにゲンナリしてしまった。制服、大丈夫なのかなと思う時があるけれど、わたしが口出しすることでも、心配することでもないのだ。さて、どんなティーンエイジャーを過ごすのだろうね。君に、幸あれ。

2025/01/08

わたしの肩書き

 年末年始をはさんでいたので、最後の『SAUCE』の仕事として各納品者に一週間分の売上金を手渡す、という任務がのこっていた。今週は各々連絡をとってお会いし、それらを手渡すウィーク。昨日も、そして今朝も。あと一人を残して、ミッション終了。

この三ヶ月、いろんな人に会って、いろんな人を紹介してもらった。あるときは「みもちゃんはタイパンツを縫っているだよ」と。またあるときは、「みもちゃんは文章を書く人」とか、「みもちゃんはめちゃくちゃ売るひとなんだよ」とも。自己紹介をするとき「はじめまして、ことりみもです」としか言わない。「縫製が本業ですが、文章も書けなくはないんです。販売は結構得意ですけれどメインのジョブではなくて、過去にはギャラリーの企画運営もしていました」と言ったら「で、あなた、なんなの?」ってなるだろう。
なにかにしぼって頭角をあらわさねば、そう思っていた若かりしときもあった。あの気持ち、どこに置き忘れてきたのだろう。あるいは船の上から放り投げたんだっけ? 記憶にないけれど、今はまったくなくなった。あの人みたいになりたいとか、それだけで食っていくとか、そういう目標に向かって生きることができる人を、素直に尊敬できる。でも、じぶんはできなかった。フルスロットルで邁進すると、すぐにエンストするタイプだと、徐々にじぶんの理解が深まってきたここ数年。おとなになって、やっとこどもになれた。これって変な言いかたかな? 車のエンストよりも、どちらかというと船のエンストにちかくて、海に漂ったまま、動けなくなってしまう。景色を見たり、風を感じたり、そんな時間ばかりが過ぎていく。エンジンをオフにした時にしか見ることのできないスローモーションの風景を眺めて、なにかをチャージしていく。また、漕ぎだすために。
肩書きはなんでもいい。みなさんがすきに決めてください、みたいな境地にいる。捉えどころのないわたしだから、わたしだってわからない。経験を積み重ねることはとても大切だけれど、一つの柱は大事にもっておいて、あとはなんでも、声をかけられたらやってみようかな、なんて思えるようになった今日この頃。縫製の仕事だけはずっと続けていくと決めている。昔からミシンが好きだったし、独学でここまでこれた。なんと言っても「作り手」の気持ちを理解することができる唯一のツールで、そこはじぶんにとってコアな部分をつかさどっている。職人、作家、そういう人の気持ちに寄り添うこと、そしてそれを伝えていくことが、じぶんの天命かなと感じている。命を注げるから。それも、ここ数年で気がついたこと。いや、みんな、気付かせてもらったこと。ギャラリーをやったり、お弁当やお惣菜を売ったりして、じぶんの姿を鏡で見ることができた。毎朝、毎晩、洗面所に立って鏡をのぞいていたのに。この瞳にいったい何をうつして、何をみていたんだろう。こんなにも、長い間。

2025/01/07

Where is my band?

 ゾンビーズというイギリスのバンドの『ジス・ウィル・ビー・アワー・イヤー』という曲を気に入っていて、狂ったように聴いている。年明けにふさわしい歌詞で、「今年は僕らの年になる、ようやくやってきた僕らの年」みたいな歌。「落ち込んでいたとき、あなたがわたしをすくってくれたことを、わたしは忘れない。太陽のようにあたたかい、あなたの愛、笑顔。あなたが言ってくれた『ダーリン・アイ・ラブ・ユー』の言葉が、わたしを前へと導いてくれた」みたいな、甘くやさしいラブソング。聴いているうちに、これはもしや出来るのではないか、波乗りでいうところの「ザ・デイ」にちがいない、ついにその時がきたと興奮している。わたくしの眠っていたバンド熱が、再熱中。イントロのピアノはおそらく娘が弾ける(気がする)し、この歌詞を、こんな歌詞をわたしはずっと昔から歌ってみたいと思っていた(気がする)。ドラムはどうする。メンバー的に夫にお願いするしかない。「ミスター・タンバリン」という異名を持つほど打楽器のうまい男。ダーリン・アイ・ラブ・ユー。わたしの耳が正しければ、ドラムはシンバルの音だけが聴こえる。シンバルの代わりになる楽器はあるのか? 自宅にある楽器はタンバリン、ウクレレ、ハーモニカ、オカリナのみ。どうしたらいいかは『BLANDIN』の宮治夫妻に相談したら、なにかヒントをくれるはず。一刻もはやく相談にいかなくてはいけない。(余談だが、同じマンションの上の階の男性が最近電子ドラムを始めた模様で、昼夜練習中)

「バンドは自然発生的に結成されるもの」そう聞いて早何年、待てど暮らせどその機会はおとづれる気配なし。「バンドは練習場所と練習時間を合わせるのが大変」とも聞いている。情報ばかりが先行して頭でっかちはよくないけれど、家族でバンドを組めばそれらの悩みは一気に解決するに違いない。さて、問題はいつ家族に切り出すかです。夫がご機嫌に呑んでいて、同時に娘の機嫌が良いときがベスト。 よきタイミングを見計らうべし。