2025/07/31

予期せぬはじめまして

 朝一で茶華道部にいく娘を送り届け、市役所へ。書類が出来上がるのを待っていると、ロビーで一斉に緊急津波警報のアラームが鳴る。場所が場所なだけに、ベンチに座っていた隣の女性から「これは訓練ではなく、本当のやつですか?」と声をかけたれた。スマホで検索する。「本当のやつみたいです」とわたし。ここにいれば安全かもと一瞬はおもったが、やはり帰宅することにした。山側のコースと海側のコース、ふたつがあるので山側コースを選んで運転。

自宅に戻る前、近所に住むサーフショップのオーナーのKさんに会う。「3メートルってあまり聞かないし避難したほうがいいよね」とKさん、「そうですよね」とわたし。それぞれの車で一緒に高台に避難しましょうか、となった。一旦家にもどり、Kさんはわんちゃんをピック、わたしはおおきめなウォーターボトルに水1リットル入れ、キャップ、充電器とスマホ、財布だけ持って車に戻る。
近くの高台は、日頃からよく散歩をしている。どのコースがスムーズか、木陰がどこかも熟知しているので、その知識がほんとうに役に立った。この気温と日差し、外にいたら疲弊するに違いない。木陰に車を停めると、ほどなくして先輩から電話。犬と一緒に車にいて、避難するならどこがいいかなと聞かれたので、同じ場所を口頭で案内する。あっちはもう車が混んで身動きがとれないので、こっちの道を通ってくださいと伝えて電話を切る。ほどなくして、伝えた場所に避難できて、今は木陰にいると先輩から折り返しのLINEがきて、一安心。
2時間くらいはここで待機することになるだろうとおもったので、車の外に出る。Kさんも出てきたが、すぐにエアコンの効いている車にわんこと戻ってしまった。Kさんの車には同乗者がふたりいた。聞けば、今日はKさんのサーフスクールだったそう。一人は何度かレッスンにきているらしい都内から来た日本人の男性。もうひとりは今日初めての参加で、シアトルから来たアメリカ人男性。明日帰国するとのことだった。「朝に波乗りしていたらウニが刺さっちゃったんだよね」と、足の裏を見せられた。痛々しい足。それでもニコニコと感じのいい人で、3人でダラダラおしゃべり。はじめましてなのだけど、なんだかみんなメロウでいい感じ。
ジャスティンという名のその彼は、なんと14ヶ月も旅をしていたそうだ。ポルトガル、スペイン、イタリア、スリランカ、タイ、インド、あとは忘れたが各国を巡り、日本にも2ヶ月くらいいたらしい。福岡、岡山、和歌山、京都、大阪、伊豆、東京、鎌倉など。「なんでそんなに休めるの!?ローーーーングバケーションだね!」というと、ジャスティンはキッパリ”not vacation”といった。そういうジャーニーをすると決めてお金を貯め、前職の仕事を辞めたのだそう。今は、自分で仕事を立ち上げるまでの期間だそうで、「ヴァケーションではなく、自分自身の成長、勉強、経験、コネクションをつくりたいとおもって旅をしたんだよ」と教えてくれた。LIFE COACH という肩書きで、ジャーニーを通じてその人の本来の生き方や、人生を見つけていくお手伝いをしたい、みたいなことだった(途中英語が早くて具体的にはわからなかったけれど)。ライセンスは要らないけれど、数ヶ月スクールで勉強をした、みたいなことも言っていた気がする。これまでは病院に勤めていたというから、カウンセリングのような仕事だったのかなと想像する。自由になったんだねというと、「そうだね、マネージャー(上司のような意味)もいないしね」というので「レポート(報告書的なこと)もないもんね」とわたし。私自身も、会社勤めを辞めてフリーで縫製の仕事をし始めたばかりだと伝えると、「あたしい人生の幕開け、おめでとう」と言われたので”Both of us!”と答える。
一緒にいた日本人の男性はおおくを喋らない感じの人だったけれどずっとニコニコしていた。単語の知識や日本の地理の知識がわたしよりもはるかに深く、わたしがわからない部分は彼がわかる、みたいな感じ。おかげで、わたしのだいぶ壊れちゃっている英語でもたのしく会話がはずみ、とてもいい時間だった。『河津七滝(かわずななだる)』なんて、その彼がいなければさっぱりわからない名所だったし、滝をウォーターフォールと呼ぶことも、昨日はじめて知った。
そんな感じの数時間を過ごしていたら、娘から電話。保護者がお迎えに来れば帰宅が可能とのこと。皆とはインスタの交換などしてバイバイし、車で中学校へ向かった。帰宅したらなんだかどっと疲れてしまい、ぐーぐー昼寝。夜は再び車を出して夫をお迎えにき、みんなでロイホ。送迎と避難で終わったような感じ。おもったことは、普段から避難場所を避難場所だとおもわずに慣れ親しんでおくこと、太陽のめぐり方や木陰を知っていることなんかが、案外とても役に立つということだった。桜がキレイ、道がひろくて気持ちいいね、なんて会話を交わしていることが、安全につながる。予期せぬことを知った1日で、同時に予期せぬ人と友達になった1日でもあった。被害がないことを祈るし、ジャスティンも無事に本国へ帰国できますように。

2025/07/30

うみは気分屋なんだよ

 12歳の娘は、物心ついた頃から窓の外は一面の海という環境で育った。そんな娘であっても、朝起きて窓の外の海を見ては「今朝もキレイだなあ」なんて言う。14年住んでいる夫とわたしもそう。見飽きることがないのは、相手がいつも違う表情を見せてくれるから。

今朝のこと。「波がなくなってるんだけど!」わたしがいうと「海は気分屋なんだよ」と、二段ベッドで寝転んだままの娘が言った。『海は気分屋』、文章のタイトルにいいフレーズだなとおもったわたしは、そんなわけで、今こうして書いているわけである。「海は人の心と同じで、荒れているときは怒っているときで、穏やかなときは優しいとき、波があって天気もいいときは、気分が良くて楽しい感じのとき」だという。だとすれば、今日は随分と優しいではないか。優しさがすぎる。
娘はなぜなのか、とても落ち着いた性格をしている。中学校の入学が目前になってくると、大人たちは挨拶のように「部活決めた?」とこどもに聞いてくる。この春にしったこと。娘は「バトミントン部か、吹奏楽部です」と挨拶を交わすように答えていた。入学してほどなく、体験入部ウィークというのがある。それらを一通り終えたあと、娘は「部活決めたよ、茶華道部にした!」とうれしそうに報告してくれた。茶華道部の体験入部が、娘の琴線に触れたらしい。一度決めると迷わないタイプなので、廃部寸前の小人数の茶華道部に入部。人がいなさすぎて、いきなり副部長。それも立候補したというのだから、ますます揺るがぬ決意を感じる。クラスメイトからも「ガチで?」と何度も言われたらしい。そう、うちの子はいつでもガチなんです。
道端などでママたちに会うと、「何部にした?」と聞かれるのも常。茶華道部だと答えると、大抵は「えーーーー! あ、そうなんだ。でも、本人がやりたいならいいよね!」みたいなリアクションがほとんど。ですよね。ちょっと意表をついたでしょう。
ちいさな小学校からおおきな中学校にいき、人数が増えることでうすまる楽さを知ったそうだが、やはりエネルギーは使うそう。入部の動機は「心を穏やかにする時間がほしい」とのことだった。和菓子をいただきお抹茶をたて、野球部が練習している声を聞いては「青春してるなあ」と思うのだそう。おばあちゃんなのかな?
先日茶華道部を見学をさせてもらったが、数名の男女が畳に正座をして、茶筅(ちゃせん)で抹茶をたてていた。和菓子をいただいたとき、とてもおいしかったのだろう、娘は私をチラ見して静かにサムズアップした。そういうところは現代っ子なのかわたしの遺伝子なのか、いずれにしてもミスマッチで思わず吹き出してしまった。茶華道部もいちおう夏の部活動があり、先日は障子の張り替えを、次回は和菓子をつくるそうだ。たのしんでいる姿をみて、こっちもうれしい。
今日はそんな娘の部活の送迎、市役所、溜まっているミシンの仕事、潮回りを見て波乗りと、テトリスのように組み合わせてうごく。娘もわたしもそれぞれのライフスタイルが確立されてきた。わたしたち、趣味も興味も全然ちがう。なんか、それがけっこういい感じ。

2025/07/29

じぶんの仕事をつくっていく

 7月1日からはじまった海の家『パパイヤ』の仕事もあっという間に折り返し地点に到着。仕事にもだいぶ慣れてきた。ビールを呑んでいる人、波乗りしている人を見て「いいなあ」と口にだしてしまうのは変わらないが、この仕事にはゴールがあり、ゴールテープが見えているから大丈夫な気がする。その昔、占い師の人に「外の景色が見えない場所で働くとだめになる」と言われたことがある。パパイヤはその点において環境が抜群なので、元気でいられるのかもしれない。2ヶ月の間、こうして働くことができるのは学生か自営業の人がほとんど。年齢差も職業の違いも、ぜんぶの違いを互いが認め、受け入れる術が大事。自営業の人からは、フリーで独立してから一本で食べていけるようになるまでの話なんかを聞けるのも、とても励みになる。

タイパンツを縫い始めて16年とキャリアは長いが、その間に妊娠・出産・子育てがあったので、それで食べていくほどには全然ならなかった。そのことに引け目を感じていた時期は長かった。けれど、だいぶ子供の手が離れた今思うことは、「そりゃあそだよね」である。ものすごく時間を注いできたし、エネルギーもつかった。なんだかいつでも疲れていたし、相手は呑気にミルクを呑んでいるのに、こっちは呑みにもいけない。羽も心も折れる感じだった。いつも何かも、誰かを「いいな」とおもっていたような気がする。そんなひねくれたじぶんの気持ちを抱えることもまた、子育てという仕事の一部だった。報酬のない仕事、対価を感じられない仕事。その全部がバカにされているような気持ちもあった。誰から?自分自身から。
子育てにおいて、いちばん大切にしていたことは、娘が「さみしい」という感情をなるべく感じないようにしてあげたい、という一点だった。「寂しさ」は大人であってもきつい。無関心が寂しさを生む。寂しさがうむ歪みや痛みが、犯罪やいじめをひきおこす要因の一つではないかとすら思っている。そう信じているから、なるべく娘に時間を割いてきたし、割けないときは友人にたくさん助けてもらった。夫もわたしも仕事で早朝に出なければならなかった日は、『⚪︎⚪︎ママ』と友人の名を呼び、朝の6時前に来てもらったこともある。その多くは独身の友人で、彼女たちのそこはかとない優しさがあって、娘は育った。だから、振り返って考えると、たくさんの仕事をした12年だったのだ。ほめていいよね。
1年くらい前から、やっと、じぶんの仕事をつくっていきたいと思えるようになった。これで食べていきたい、ずっとやっていく、という決意も。タイパンツを細々と続けてきたことで、縫うことだけは腕が落ちなかったはず。誰しもが独立したら仕事はつくっていくしかない。それはじぶんにとってどういうことかと考えたとき、一つ一つの仕事を誠実にこなしていくことになる。夫をはじめ、友人にもたくさん助けてもらった。じぶんの足で立っていること、じぶんの手で仕事を作っていることを、時間をかけてみてもらえるように、今日も明日も誠実な仕事をつくっていく。

2025/07/28

first time in my life

 数少ないママ友のひとりに、フリーのフードスタイリストをしている女性がいる。食材からお皿までをすべて事前に用意し、都内のスタジオへ向かうそう。荷物がおおいので、基本的に撮影スタジオへは車で移動するといっていた。

コロナ禍で仕事に影響がでた人はおおいとおもう。彼女もそうだった。私もそうだった。その頃だったとおもうが、いつも元気な彼女もややトーンダウンしていたような記憶がある。それからしばらくたって久しぶりにあったとき、「あと10年はこの仕事をがんばろうとおもって、気合い入れるために車買ったんだよねー」と言った。白いヴォルボが、彼女を鼓舞してくれた様子だった。その日のことはわたしの記憶の片隅にいつもあった。よかったね、と。沈んでも自分で浮かんでくる彼女らしい決断だなと、さすがだなと。もうひとり仲良しのママ友は、フリーのグラフィックデザイナー。イタリア好きの彼女も、はじめて自分のギャラでフィアットのパンダを買ったとき、イタリアの街を走っているような気持ちで、うれしくてしょうがなかったと言っていた。そう語っていた時の、彼女のキラキラとした顔。
我が家にあたらしい車がやってきた。キレイ好きな夫は充電式のケルヒャーを買って、週末の朝ははやくからお掃除に余念がない。あんなこと、わたしは絶対にしない。でも、アクセルを踏むと前の車よりも馬力があって、もしや根が走り屋なのではとおもうほど、運転が楽しい。いつもお世話になっている中古車屋さんで、二者択一の4ドアか2ドアか迷っていた夫に「2ドアにしようよ!」と背中を押したのはわたし。夫が、本当はそっちがいいと思っているのが言わずともわかったし、自分も、自分自身に気合を入れたいと思ったことも大きい。布はおもいので仕入れや納品は車でいくこともおおいし、あと10年、いや20年はこの仕事を自営業でがんばろうと決めたから。はじめてのおかいものは、すがすがしくて、気持ちがいい。
ママ友ってほんとうに不思議な存在。親戚のようでもあり、同志であり、いつも同じフェーズをマラソンのように走っている感覚がある。独身の頃に出会っていた友人と決定的に違うのは、そこに別のキーマンがいること。それは紛れもなく、お互いのこどもたち。保育園から一緒で、うんちだおしっこだ、あるいたね、しゃべったね、おむつとれたね、イヤイヤいって大変だと愚痴りあって。かとおもえば、運動会でかけっこする姿に、手を叩いて目を細める。ひとつひとつ、一緒に歩んだひとたち。尊い時間を一緒に刻み、今はお互いに子供の手もだいぶかからなくなって、さあ、次はどうすると気合を入れなおす。それぞれに年上のお姉さんママ友、大切なふたり。毎年タイパンツを増やしてくれるママ友、穿きすぎてタイパンツの紐が切れかかっていたママ友、飲み仲間のママ友、飲むことを部活と呼び、自主練を欠かさないわたしたち。肩を落とす姿も、気合を入れなおす姿も見せてくれる、愛すべき同志。

2025/07/27

傷を舐めあえない

 まとまった数の、新規の仕事の発注をうけた。ありがたいことなので、サンプル製作からお手伝いさせてもらっている。OEM(Original Equipment Manufacturer)のような感じ。興味深いし学びもおおい。一緒に考えて試作、作っては改良、みたいな感じですすむ。ものづくりってこうなのかあ、素人の感想。昨日、「すこし考えれば、ここの部分わかるよね」という初歩的な縫い方における痛恨のミスをしてしまい、量産前だから点数はすこしであっても、先方に迷惑をかけてしまったのは事実。くやしい〜。

前職で企業の修理部にいたときも、ミスはあった。どんなに息を止めて集中して細かい作業をしても、誰にでもそれはあった。その度、ひどく肩を落とすし落ち込む。新人でもベテランでも、不意にミスはやってくる。その痛い気持ちがわかるだけに「しょうがないよ、次は気をつけよう」などと声をかけあってきた。昨日、そのことをふと思い出した。今はひとりなので、イテテとなったときに傷をなめてくれる人がいない。だから、とりあえず自分で舐めてみる。しょんぼりしている時間もなければ有給もない。あるのは、切り替えて前進することのみ。初歩的なミスにどうして気づかなかったのか、次の納品をどうしたらもっと相手にとってよくできるかを考えて、また手を動かす。
ひとりだと大人数で働く大変さとは無縁で、その点ではかなり幸せだけれど、傷ができたときはひとりの孤独さを感じる。そうは言っても、相棒はじぶんの中にしかいないので、気を取り直してもう一度。もっと上手くなりたい。
その昔、最初におこなったタイパンツ展でいろいろなミスをやらかしてしまった。閉店後、そのとき展示場所でお世話になっていたZakkaの吉村さんと北出さんに、「あ〜あ〜、失敗ばっかりだなあ」と嘆いたら、「それは失敗じゃなくて、経験がすくないだけ」と言われて目から鱗だった。あの日の言葉を、もういちど胸に。
タイパンツを仕立てるときは、今では手が勝手に動く。緊張は忘れないが息はとめないし、心穏やかにミシンも踏める。16年積み重ねてやっと、今。なので、それ以外の縫製の仕事はぜんぶ、まだまだこれからってことだ。当たり前といえば当たり前。48歳のわたしが言うのも変だけれど、経験を重ねるなら、1日でもスタートは早いほうがいい。あと20年は頑張る。そのとき私は68歳。そこからあと10年頑張って、78歳か。まだまだ先はながい、気を取り直してがんばろっと。

2025/07/22

How to enjoy music of new generations

 13歳に向かっている、まだ12歳の娘はスマホを手にして10ヶ月ほど。インスタグラムは13歳からアカウントが取れるとかで、クラスでアカウントがある子とない子が混在している様子。いずれの子もよくみているのはやっぱりTikTokだそうで、そこから音楽を、正確には音楽に合わせて踊る様子を見て楽しんでいる。中でも「こ、これは!」と思うものに出会うと、何やら練習がはじまる。長くて細い手足をクネクネとさせて踊る我が子。うまいのか下手なのかよくわかりませんが、わかることはただひとつ。なにをしてもかわいい、という事実。

TikTokで使われる音楽は、だいたいサビの部分らしい。娘の場合、その曲がよっぽど気にいると、次はアップルミュージック(家族プランなので彼女も聴ける)に飛んで、頭から聞くのだそう。
先日、「ママ、この曲いいんだよ」と教えてくれた曲があった。フォレスト・フランクの『YOUR WAY’S BETTER』という曲。「イントロからしっとりしていていいからね」とスピーカーを持ってきて聴かせてくれた。確かに良い曲ではないか! こういうしっとり系が好きなのね、ママもなんです。気が合うわね、うれしい。
娘の様子しかしらないが、最近の子の音楽の楽しみ方は新鮮でいい。この時代のこのアーティストのこのジャンル、とかまったく関係ない。洋楽・邦楽・年代ごちゃまぜで、踊りも一緒にたのしんでいる。フリーダムですね。語学もそうやって身につけるんだろうね。「知識がない」と言葉にすると、乱暴でバカにした雰囲気だけれど、言い換えれば「偏見がない」つまり壁がない感じがする。いつだったかテレビで「最近の若いこはみんなイントロを聴かないから」と言っていて、「マジか!最低だな」と思っていたわたしは、この娘の行動を見て、情報を鵜呑みにし、己もすっかり若者への偏見を持っていたことを知った。「みんな」って誰なのか。見てもいない噂を簡単に信じて流されてはいけないと反省した、ついこの間の出来事。

2025/07/21

おばさん、それはズッ友ないきもの

 久しぶりの休日は、朝ごはんも家族でゆっくりと。昼ごはんは簡単に。暑いから徒歩は無理と、車で選挙にいく。夫と交代で車に残り、投票を終えてから最寄り駅まで送ってもらう。楽チン。

午後はたのしみにしていたオバサミット。オバサミットとは、おばさんとおばさんのようなおじさんが不定期に集い、お茶をのみながら、ただはなしたいこと、今思い出したことを話す会。会が終わる頃には、冒頭のほうで何を話していたのか、すでに全員が思いだせない、そういう集い。主要メンバーはMさん、Bやん、Oちゃん、わたしの4名。Oちゃんはひとりだけ男子だが、おばさんの資質があるし、何より多様性のこの時代、オバサミットにはなくてなならない存在で、もはや揺るぎない地位を確立している。
昨日はOちゃんが決めてくれた横浜高島屋の『ウエスト ベイカフェ ヨコハマ』に集合。銀座に本店を構える『洋菓子舗 ウエスト』のベイカフェで、錨(いかり)のマークが店頭にあったりしてかわいい。おばさんの聖地のようなセレクトで、さすがOちゃんだとお礼をいう。おしゃれなOちゃん、昨日はピンクのギンガムチェックのシャツに白いコンバースにきれいめな短パン。シャツの下にお召しなのは、港街・横浜をイメージされたのでしょうか。サーフボードを抱えたサーファーがプリントされた(シャツをきていたので100%は確認できず)Tシャツでした。個人的に、お洋服の好みがけっこう好きなOちゃん。
昨日、サミット会場に着く前に駅ビルをうろついていて、連絡通路みたいな入口から高島屋に入店したら、たまたま高級フロアだった。とつぜんに『JIMMY CHOO(ジミー・チュー)』。高島屋がだいすきな父が、その昔「デパートの高級フロアは絨毯だからね」と言っていたが、確かにジミー・チューの前は絨毯が敷かれていた。普段あまり足を踏み入れないフロアなので結構たのしくてうろうろする。途中から絨毯は消え、ふつうの床になる。へー、おもしろい。
昨日のオバサミットは、旅先の喫茶店、民芸博物館、岡本太郎先生、万博、最近見ているドラマ、親の話、映画、大河ドラマ、朝の連続テレビ小説、ティーンの早送り再生についてなど、あっちこっちと喋り散らかし、まさかの夕方になっていた。どんなボールも打ち返してくる、博学で行動力もあるMさんは、いつも話を豊かに展開させてくれるから一層盛り上がる。OちゃんBやんMさんは、音楽や美術館など、かさなる興味もある感じで、いつも楽しそうに会話を交わしている。そういう光景を眺めるのが好きなタイパンツおばさんは、家族に「5時ごろには帰るね」と言ったのに、時計を見ると今がまさに5時だと驚く。全員驚くおばさんたち。若い頃、少しだけラジオ局に勤めていたことがあるのだが、「P」と呼ばれるプロデューサー、「AP」と呼ばれるアシスタント・プロデューサーくらいは入局前から知っていたが、「TK」と呼ばれるタイムキーパーという人もいた。TKさんは時間通り進行するために段取りを見張るような仕事で、オバサミットにもTKさんが必要なのではないか。閉店までしゃべり続ける自信がある。いつもそう。帰り際、「ともだちでいてくれてありがとう〜」と自然に口にしたじぶんにびっくり。70歳とかでも言ってそうだね、とBやん。確かに。別れ際はとくに名残惜しくもなく、解散はあっさりしているのもおばさんのいいところ。切り替え大事。みんな、長生きしてね。

2025/07/20

love your family

 中古車がやってきたので、鶴岡八幡宮へご祈祷へ。「一緒にいく?」と娘に聞くも「いかなーい」とのこと。ほらやっぱり、2ドアを選んで正解だったでしょうと、寂しがる夫に言いながらドライブ。ご祈祷、交通安全もさることながら、故障しませんようにとおもてを下げる。戻ってすぐ、逗子の市民ホールで落語。だいすきな落語、夫ははじめての落語。柳家花緑(やなぎや・かろく)さんが好きなので予約をしたが、もうひとりの桂宮治(かつら・みやじ)さんも涙を流すほどおもしろくて、すっかりファンになってしまった。吉本新喜劇を彷彿させるよねと夫と話していたら、宮治さんは上方(かみがた)落語といって主に関西の落語の方だった。上方落語は、どちらかというと笑えて賑やかな感じ。一方の花緑さんは江戸落語なので、江戸っ子らしい歯切れのいい口調。内容は人情味があるというか、笑っていたと思ったら不意に泣かせるような感じ。江戸落語を聞いていると、父を想う。父は江戸っ子なので、喋り方、ふざけ方、不意にいい言葉をつかって泣かされそうになるところ、その全部が父だから。上方落語ははじめて聞いたけれど、ドストライクに好きだった。自分はなぜ関西人が好きで、夫も友人も若いお友達も、関西人がおおいのかがわかるような時間だった。笑いっぱなしで終了、花緑さんのように不意に泣かされる時間は1秒もなかった。また絶対に観にいく!宮治さん、めちゃくちゃファンになった。

落語を終えて、ワンピースを脱いでタイパンツに着替え、レザーサンダルからビーチサンダルに履き替え、自転車にまたがって海の家『パパイヤ』へ。週末の夜のバイト、はじめて。混雑が怖いので避けていたが、人員不足で先輩から招集がかかり、断れずに緊急登板。びびっていたが、ピークの波に乗るの、波乗りみたいで結構おもしろかった。20時半ごろ店をでて、自転車で帰ると地元のカラオケ大会はまだまだ盛り上がっていて、カラオケ後のビンゴ大会タイムに突入していた。老いも若きも楽しそうでなにより。道路の一段高いところから、近所のご夫婦が椅子にすわって見ていたので、「重鎮(じゅうちん)みたいでいいですね」と声をかけて笑う。
平和がいちばん。平和を、平和を!と声を大にして叫ぶよりもずっと手前のほう、足元のあたりでいいから、まずは近い人と笑いあう。遠回りのようで、近道な気がするのはわたしだけだろうか。みんな悲喜交交(ひきこもごも)の人生。ただ笑うことが、語らずとも抱えている辛さを、胸に秘めている悲しみを、一瞬でも忘れさせてくれる。そうどこかでいつも、信じている。だから笑う、涙を拭いながら。もう何度も書いていると思うが、マザー・テレサがノーベル平和賞の授与式で「世界平和のために私たちができることは?」と司会者に聞かれた際に、”go home and love your family”と答えた、わたしが大好きな言葉を今日もここに。

2025/07/16

あ、やるときゃやらなきゃダメなのよ。

 クレイジー・ケン・バンドの『あ、やるときゃやらなきゃダメなのよ。』という曲がある、歌詞もさることながら間奏の演奏も格好よくて好きな曲だ。ここのところのわたしはまさにこのタイトルのような日々。「縫製の仕事を一生、一生懸命にやる」と決断したら不思議なもので、いろいろな種類の仕事の依頼が舞い込んでくる。実際のところ、「そんなわけで仕事をくださーい!」と、恥ずかしげもなくいっていたこともおおきい。仕事の依頼は修理だけではなく、「へえ!」みたいなものも結構あって、作業に必要な道具をあらたに購入する場合もある。そのときはそれらを含めた金額を見積もって、オッケーであればゴー、作業開始。責任につぐ責任を感じまくっているけれど、逆にいえば全責任をじぶんで負えるし、やる・やらないの決断もできる。人と足並みを揃えられない、協調性の欠けている自分には、あんがいあっているのかもしれない。あとは高い技術さえあれば…とおもうが、そこは経験とプラクティス以外どうしようもないのだ。日々精進。

この夏、細々ではあってもずっと続けてきたタイパンツ展をおやすみしてよかった。縫製の依頼も、パパイヤの仕事も、ときどきお手伝いするチャハットの仕事も、全部じかんを作ったから受けることができた。大学を卒業してからずっと、たくさん企業の転職をしてきたジョブホッパーで、業界もバラバラだからなんのキャリアもない。ついでにやる気もない。でもお金だけはもらう。典型的なだめ社会人だった。そのことに自分自身ずっとうんざりしていたけれど、最近はもう開き直っている。声をかけてもらった仕事は誠実におこなうと決めて、それをじぶんのキャリアにしようと決めた。声をかけてくれるのは自営業の人がおおいので、彼ら彼女らの力になれたらとおもうし、同時に個人事業主のわたしにも、たくさんの学びがある。そんな気持ちで仕事に向き合ってきたのは正直はじめて。50手前でやっとこの気付きなのかと、まさか己のことなのかとショックで卒倒しそうだけれど、現実っていつでも厳しいですね。
でも人生悩んだり迷ったりつまづいたりしている若者に、「安心してください、こんなおばさんもいますから」と、あらたなモデルケースになれたらそれもまた本望。たとえ「ああ、やっぱりああいう生き方は失敗なんだなあ」と思われても、それが若者の決断の参考になれば、おばさんはそれでいい。
「みもちゃんはタイパンツ以外、誇れるものはなにもない」と言い続けてきた鬼の夫にも、最近はちょっぴり感謝している。何度も「もう飽きた、そろそろ違うことしたい、もっと向いている仕事がある気がする」と逃げまくってきたわたしの首根っこを捕まえてきた大男(おおおとこ)。実家では一度も来なかった反抗期が、なぜでしょう結婚してからは夫に芽生えてしまい、常日ごろ夫の厳しいアドバイスにはそのほとんどを反抗しまくってきたこのわたし。でも、おおむね夫に言われた通りの決断をしているではないか。かなしみ。「みもちゃんが誇れるもの、少しはふえたね」、鬼に言われる日はくるのかこないのか。夫がこのブログを読むことは一度もないので、こうして好き勝手に描き散らかしている、反抗期から抜け出せないわたしです。

2025/07/15

mama, you are so curious!

 湘南で知り合って仲間になったひとり、兵庫県出身のMちゃんに「わたしは東京から湘南に移住してきから…」みたいな会話をしていたときのことだ。「みもちゃん、その距離は移住とはいわないよ」と笑われたことがある。その場にいた大阪出身の夫も、「そうだよ」と笑っていた。Mちゃんと夫は関西人同士なので、いつもウマがあう。

ふたりには申し訳ないが、わたしはやっぱり「遠いところにきたじぶん」が、払拭できずにいる。東京で育った人は、ちょっとの距離をとおいと感じる傾向がつよい。都内に住んでいたころ、友人と「Suicaの減りがはやい!」とはなすことがあったが、それは500円を超えるほどの距離にあそびにいったときに、どちらともなくでてくる会話だった。それだけあまり遠くに移動していなかったのだろう。電車を乗り換えることはもう遠出で、高田馬場に住んでいた頃は、新宿で乗り換えて信濃町などはもう遠い。たとえ同じ新宿区であっても。渋谷から東横線なんて日には、横浜に小旅行くらいのテンションだった。家族で東京を離れたのはわたしだけなのもあって、家族からは「遠いから小包をおくる」とか「グリーン車に乗らないと」とか、ものすごくとおくに嫁いだ娘扱いだった。今もそう。
で、昨日。湘南に暮らしていると、東京はちかいようで遠く、遠いようで結構ちかい。難しいのはスケジュールで、特に都内に両親がいる場合はなおのこと。年老いた親に会いにいく目的がメインであっても、そのついでに仕入れをして買い物をしてあの店でビールを飲んで…とついつい詰め込んでしまう。で、結局ひとつくらいしか達成しない。昨日もそうだった。まず母に会いにいき、夏服にどうかなと涼しげなパンツを買って、丈を6センチつめたものを持っていった。着てもらうとぴったり。トップスは数日前に姉が買ってきてくれたらしい、ブルーのカットソー。鏡の前で「ママはこういう色が好きなの。海みたいなブルーですてきね」と言い、前から横から、しばらく自分の姿を眺めていた。差し入れをしたプリンやカフェラテを飲みながらはなす。終始うれしそうな母を見ていたら、もはや他の予定などどうでも良くなってしまった。
いっときは、今年の春から家族で別の土地に移住計画を企てていたわけだけれど、つくづく時期尚早であった。こんな時間をみずから手放そうとしていたのかと、踏みとどまれてよかったと心の底からおもった。何をそんなに急いでいたのか。土地も夢も、縁があれば逃げないから大丈夫なのに、とても慌てていたのだろう。いつでもスロウペースで微笑みを絶やさない母をみていると、そのようなことを素直におもう自分がいる。鹿児島から東京に嫁いできた母はそれこそ移住者だった。頼れる両親も兄弟もそばにおらず、四人の子育てをするのは大変だったはずだけれど、母はいつでもキレイにメイクをしておしゃれをし、優しかった。褒めて褒めて、ただただ褒めて育ててくれた。今はすっかりおばあちゃんになった母だけれど、あの頃と変わらずに、褒めてくれる。とおかったでしょう、電車はすわれた? おようふくの色合いがキレイね、48歳!嘘でしょう? わかーい!、 昔から頑張り屋さんだった、手先が器用、こんがりと日焼けしていい感じね、ただただ褒めてくれる。すこしづつ記憶の断片を置き忘れたり、またそれを拾っては宝物のように眺めている。寄せては返す波打ち際のような時間。微笑みを絶やさずに水平線を眺め、砂浜に埋もれていく足をしっかりと踏ん張って、ゆっくりと生きている母。わたしは母がだいすき。シー・イズ・ビューティフルでもカインドネスでもあるけれど、そのどれもがしっくりこなくて、ユー・アー・ソー・キューリアスというニュアンスがちかい。電車に揺られて向かうあいだ、なんて言ってくれるかなとか、よろこんでくれるかなとか、そんな気持ちを両手いっぱいにたずさえていつも、母に会いにいく。

2025/07/14

トップシェフ、スーシェフ、サラアライ

 海の家『パパイヤ』のバイトを一緒にやることになったのは、岡村恵(おかむら・めぐみ)さん、通称めぐちゃん。正式な料理人。最近では自作のお弁当の販売や、ケータリングのようなこともしている様子だ。めぐちゃんとの出会いは昨年お手伝いをしたレンバイの『SAUCE』だった。料理人のめぐちゃんは『YUGE』のわたなべさん、通称なべさんを氏と仰ぎ、一緒に仕事をしていた。おとうさんほど歳の離れたなべさんとまだ若いめぐちゃんのコンビは、側からみていると日々コントのようで、わたしはそれをおもしろがって眺めていた。破天荒な師匠についていく、真面目なメグちゃん。日本料理など、厳しい食の世界に身を置いてきためぐちゃんにとって、自由奔放ななべさんは異端児に映ったのではないか。アメリカがだいすきで、おようふくがおしゃれで音楽や映画がだいすきで、何よりご飯がおいしいなべさんに不思議な縁で引き寄せられるように出会っためぐちゃんは、きっと学ぶことがたくさんあるのだろう。なべさんはなべさんで、真面目でかわいいめぐちゃんに助けられているところは数え切れないはずで、ふたりはなんだか、いつでもいいコンビに見えていた。「みもさ〜ん、きいてくださ〜い涙」と困った顔をしてSAUCEにやってくるメグちゃんと話をするうちに、すっかり仲良しになった。何より同じ和光生(町田にある学校の卒業生だった!)だと発覚してからは、それまで以上に先輩風をふかしているわたしだ。

パパイヤでは、ときどきめぐちゃんとシフトが一緒になる。パイセンさすがっすね、と言いたくなる身のこなしで、先輩後輩がまさかかの逆転現象。次々とかぶさってくるオーダーもちゃんと頭に入っていて、もたついているわたしと違い、とにかく動きがいい。経験値の差がデカ過ぎる。
この秋にビッグチャレンジを控えているめぐちゃんとあれこれ話をしている中で、トップシェフとか、スーシェフとか聞き慣れぬ言葉が出てきた。「スーシェフってなんなの」と聞くとトップシェフの次の人を指すのだと教えてくれた。「この間いったピッツェリア(窯もどうのこうの、よく覚えていない)が本格的でおいしかったんですよ!」と言うので、呼び名はピザ屋じゃダメなのかと、ピッツェリアとはなんなのかとしつこく聞いたりする、とても面倒臭い先輩のわたしは、後輩との異業種交流をたのしんでいる。
その日はなべさんがパパイヤにくる日だった。修理品のオーバーオールをとりにくる、という連絡が朝に来たのだ。なかなか来ないねとめぐちゃんと話していると、おそい午後になって砂浜からプラ〜とやってきたなべさん。赤いロゴに白の縁取りで『Hollywood』とプリントされた、いい感じに着古してくたっとしたネイビーのTシャツを着ていた。古着なのだろう。ちょうど西陽に向かって陽射しが傾きはじめた時間で、なべさんの背後からは眩しいくらいの光がさしていた。『セレブの休日』とタイトルをつけたいくらいの絵面(えづら)だが、実際のなべさんはその対極をいくかなり破天荒なおじいさんに近いおじさんなので、その絵面とのギャップがまたツボでめちゃくちゃウケる。「鎌倉を代表するトップシェフがきた!」とわたし、笑うめぐちゃん。めぐちゃんはスーシェフ、わたしは皿洗いだねとか言ってふざけているうちに由比ヶ浜は夕暮れの時間になって、いつも通りに寸胴鍋を洗ったりする時間がやってきた。去年の夏は、こんな日が来るとは想像もしなかった。なべさんもめぐちゃんも、近くにいたのに知り合いですらなかった。あの夏、心ゆくまでだらけ、不貞腐(ふてくさ)れていてよかった。一見わかりづらかったけれど、また漕ぎ出せるようにと、体力を回復させていたのだろう。現実はいつも、想像がつかない展開をみせる。未来を思って肩を落としあれこれ心配したり、あるいはぜったいに夢を叶える!なんて肩に力をいれることですら、全てが自作自演の茶番にすぎない。笑いに変えられないこと以外、ぜんぶいらない。そう思ってしまうほどに、じぶんの人生はいつもどこかにながされて、ただ、漂って。

2025/07/10

our car is dead

 信頼している中古車屋さんで、いつも車を買っている。聞いたことはないけれど、波乗りしているんだろうなーと言う風貌で、Tシャツではなく、いつもボーリングシャツのような襟付きの服を着ている。スニーカーがキレイで、髪型も、さりげいけれどこまめに美容室にいっているのだろう。流れるようなやや長髪をかきあげるスタイルで、こぎれいなイケオジさん。ラインの返事が光の速さで、シゴできイケオジさんでもある。会話がウィットに飛んでいて、なんか好きなタイプの人。

我が家の駐車場は、砂浜に停めているようなもの。湘南の中でもダントツで劣悪な環境のパーキングなので、もはや車を選ぶ余地はなし。「人生で一度はFIATのチンクエチェントにのりたいんです、カブリオレの」と車検の前にいつも一応聞くのだが、「遠い場所に駐車場借りたら教えてください」と言われる。責任もって売れない、絶対にすぐ故障するとも言われる。叩き潰される、儚き夢。
我が家は二度の車検は通らないほど錆びるらしいので、中古車を買ってだいたい4年弱でまわすスタイルがいいと言われて以来、素直にしたがっている。この夏もまたそのタイミングがやってきた。車検、あわよくばいけるか? とお互いに淡い期待を抱いていたが、状態を見てもらったところ、即、廃車確定であった。
次の車は、イケオジさんに提案された2台から選ぶ。「サビに強いのはこっちです、でもあの環境だとあんまり変わらないかもなあ」と言われたが、サビに強いと言う言葉に夫婦でなびく。そして、なんといっても2ドアだったのがいいなと思って決めた。最近娘が一緒に出かけることが少なくなった。そのことを嘆いてるのはもちろんおとーたん。夜泣きは率先して抱っこをし、泣けばミルク、やたらと時間のかかる沐浴、拭きすぎるほどのオムツ替え、お洋服も死ぬほど買い続け、てしおにかけて育ててきたおとーたんのかわいいバブちゃん。ここ最近はお膝にのってかわいく甘えてきては、お小遣いをもらったらさっさと出かけている。ウケる、わたしもあの手口であった。「一緒に出かけてくれなくなった」と、夫がドライブ中にたびたび嘆いてるのを助手席で聞いていたので、「今こそ2ドアじゃない? 後部座席狭いけど、ほとんど二人じゃん!」といって、さっさと決めてしまった。わたしは7.6ftくらいまでのボードが、車内に突き刺すかんじで入ることが条件だったので、それもバッチリ。今は台車の軽自動車に乗っていて、これはこれで結構たのしい。なんか足取りが軽い。軽トラとかも乗ってみたいんです。幌(ホロ)があるような。
今月中には次の車、こんにちは。2ドアの車は父が好んで乗っていたので、いちいち助手席を倒すめんどう臭い感じとか、その仕草が懐かしくてなんだか嫌じゃない。2ドア、実は結構見た目が好きみたいだ。じぶんが、父に似ていることを年々しっていく。遺伝はこわい。「ぱぱはわがままでごういんでじぶんのことばっかりでああいうおとなはいやでちゅ! だめでちゅ!」とバブちゃんだったわたしはクソ生意気におもっていたけれど、たぶん、すごく似ているのだろう。車内で爆音でジャズをかけたりしませんように。同乗者が車酔いするようなブレーキとアクセルの踏み方も、どうかしませんように。

2025/07/09

ものが繋いでくれるもの

 西鎌倉のLEPOLKU(レポルク)へいくのは、昨日で3回目。レポルクは自宅の一角が飲食店になっている。陽の光や風の流れをどれだけ心地よく感じることができるかを考えて建てられたのだろうと、行くたびにおもう。だって空間が気持ちいい。あとでわかったことだが、仲間の旦那さんが設計施工をした家だとしる。なるほど〜、とうなるセンス。

最初に訪れたとき、「領収書の宛名はコトリビーチでおねがいします」と言うと、店主の女性が「タイパンツの人?」と言った。いくつか会話を交わしていたら、その横でナポリタンだけを作る(その他のドリンクは全て女性がおこなっていた)店主の旦那様が「僕、タイパンツよく履いてましたよ。タイとかで」みたいなふうに会話にカットインしてくれた。その男性が「実物をみてみたい」と言ってくれて、タイパンツを持参してうかがったのが二度目。三度目の昨日は生地のサンプルをもっていき、彼からオーダーを受けた。
ナポリタンをつくるその男性は、ふだんは鎌倉・大町の『邦栄堂製麺所』で工場長として働いている。週末になると敷地内にはフードトラックがでてきて、そこで焼きそばを焼く。最初にその焼きそばをいただいたのは、例によって単発で依頼をうけるチャハットでバイトをしているときだった。食べることがとにかく大好きな大竹シャチョーが、ランチタイムに買ってきてくれた。それが、工場長がつくったものとの最初の出会いだった。
昨日一緒に足を運んだのは写真家の杉江篤志(すぎえ・あつし)くん。工場長はバンドを組んだり楽器も弾ける様子で、昨今バンド活動にお熱を上げている写真家(カメラはどうしたのだろう)の杉江くんも、たのしそうに会話を交わしていた。お客様が帰られて、4人でテラス席にすわりあれこれ話す。音楽の話、陶器(タイル?)の話、パパイヤの話、チャハットのこと、ものづくりのこと、ジブリパークの話など。興味のある話題には興味のある人が、そうでもない会話のときはテラスに吹き込む風にあたってのんびりする。そういう感じで、時間がゆるく永遠に過ぎていく感じ。
途中、工場長が自身のCDとレコードを渡してくれた。こういう写真で、こういうイラストを好んでジャケットつくるひとなんだ、センスいいなとしばらく眺める。わたしはわたしで、オープンのお祝いにどうかなと、自身の本の『Birdsong』と『Sunny Side』をこっそりバッグにしのばせておいたので、それをプレゼントする。『SunnySide』の写真は全て杉江くんが撮ってくれたので、本人が目の前にいると説明もはやい。「作ったものを交換できるっていいですよね、その人がわかる感じがする」と話しながら。でも、それってお店もそうなのかもしれない。どんな器で料理を盛り、どんな音楽を流して、どんなインテリアが好きで、店主はどんな味をおいしいと感じて好み、客に提供してくれるのか。メニューはコーヒーだけなのか、ビールもおいてあるのか。メニューひとつ、グラスひとつ、集中してそれらを観察するタイプではないわたし。だと思っていたけれど、もしかしたら知らず知らずのうちに、そんな店主が作りだす空間にじぶんは癒され、解き放たれ、目に見えないあらゆるものを体の内側に取り込んでいたのかもしれない。その昔、師匠であり美術作家の永井宏(ながい・ひろし)さんが「お店は自己表現の場だからね」と言っていたことをふと思い出した。当時は「ふーん」と聞き流していたが、もしかして、こういうことを言っていたのかな、なんておもった昨日のLEPOLKU。じぶんがお店をやることはきっとない。けれど、わたしはわたしのやり方がある。それは布であり、糸であり、パターンであり、時に言葉である。自分の好き、自分のおもう美しさを、それらで表現したい。がんばろっと。なんだか自然とそんな気持ちになるような、やさしくて心地のいい時間だった。彼らのおかげで、まったく縁のなかった西鎌倉という土地がぐっと身近になり、とてもすきな場所のひとつになった。

2025/07/08

きっと軌道に乗る

 母に会いに東京へ。最後にあったのがいつだったか思い出せないくらい、ご無沙汰の母。足を運べていないので気になってはいたが、こどもが溌剌(はつらつ)としていることをよろこぶ母なので、会えずにいた罪悪感はない。

近況をはなす。海の家でアルバイトをしていることに加え、縫製の仕事、思い入れのある壊れたものの修理をしたりもしているんだよとはなすと、「きっと軌道に乗るわよ」と母が言った。母が直感で感じたことを口に出すときのスピード感は、ふだんのんびりでおっとりしている口調とははっきりと違い、ややかぶせ気味くらいに言う。まっすぐな瞳で。昨日もそうだったので、「そうなのかな、ママがそう言うならそうなのかもしれない」と思わずにはいられかなった。母が贈ってくれた言葉は、宝物のように思えた。大切にとっておいて、いつの日か実現させたい。母とわたしの約束のような宝物を、胸の中の箱にしまう。そっと。
『軌道』と辞書で調べると「物体などが一定の力の作用を受けて運動する際の、一定の経路。特に、天体が運行する道筋」とあった。天体が運行する道筋、なんてロマンティックなのかと頭上に広がる夜空に思いを馳せる。
母と別れて新宿の『OKADAYA』へ。リニューアルオープンし、縫製道具がこれでもかと置いてある聖地のような場所。知らなかった便利グッズを見ると片っ端から買いたくなるが、日本製やドイツ製と様々。メジャー一つ、針一本、色や好みを考えると選ぶのには一日入り浸らなくてはいけない。
仕事をするとき、目に入る道具が美しいものでないと、あがらない。外の景色も、道具の美しさも、作品に投影されていくと思っていて、自分の仕事はとにかくエネルギーを要する。限りのある時間を分け、命を削って縫っている。わたしはどこへいくのだろう。行き着く先、目的地に続く道を日々探すのではなく、針の先を見つめてミシンを踏む。そうしていつの間にか、母が言ってくれたように軌道に乗れていたら、それが一番。天体が運行する道筋はミルキーウェイのようなものなのか、銀河のようなものなのか。たのしみはすぐに手にしなくていい。見えないくらいにずっとずっと先にあるほうが、きっと。

2025/07/07

おねえちゃんのような先輩

 DAILY by LONG TRACK FOODS の馬詰佳香(うまづめ・かこ)さんのことを、本人に向かって「先輩」と呼んだことはないが、人生の先輩だとおもっていることは確か。当時わたしが28歳、最初に出会った馬詰さんと何故だったかサーフィンの話になったとき、馬詰さんが「40過ぎてから波乗りをはじめたから…」というのを聞いて「え!40過ぎてるんですか!?」と聞き返したことだけは強烈に覚えている。28歳にとって40代はかなりの大人だったし、その時の馬詰さんはとても若々しく、実年齢と目の前の本人とのギャップにかなり驚いたのであった。20代は、30歳はおばさんだと思いがちで、40歳なんて日がまさか自分にやってくることを想像するのすら至難の業なのだ。女の子なんだもの。

その頃のわたしと夫は、七里ヶ浜のフリーマーケットでそれぞれが作ったものを販売しはじめたばかりだった。夫は切り絵、わたしは布こもの。若かったから、とにかくうるさい大人がおおく、イラっとしたり、傷ついたり、落ち込んだりすることも少なくなかった。わたしに関しては、「布地と糸色が同じじゃないなんて変だ」とか注意された。そのカラーリングがおもしろいのに、と思っていたけれど、常識を知らない若者だと思われのだろう。夫に関しては「〇〇って画家も知らないの?」とか、会社員をしながら切り絵を売っていたことを「二足の草鞋なんて本気じゃない」みたいなことも言われた。フリーマーケットの店頭に立っていたのはいつでもわたしだったから返事に困っていると、夫が車から出てきて「嫌ならかえってくれよ」と言った。そうすると、たいてい彼ら、彼女らは踵(きびす)を返してさっと消えるのだった。ちいさくて人当たりもわるくないわたしのようなものには強く、おおきくて強面の夫には言わない。そういうことを若いうちに知って、「こんな大人にだけはならないぞ!」と若いわたしは思ったわけである。過ぎてしまえばすべての彼らにも、ちっぽけなありがとうくらいは贈れる。悪役で出てきてくれたのね、と。人生は舞台、悪役は上手(かみて)から下手(しもて)へと幕の中へ消えていく。「どうぞおげんきで、さようなら」と手を振って仕舞えば、もうおしまい。
そんな時代の時だったから、「わたしなんて何足も草鞋ぬいだりはいたりしてる!」と口に手を当てて笑って話す馬詰さんの存在は特別にみえた。そのころのわたしは都内の外資系企業にいた。セールスアンドオペレーションというチームで、数字やデータと睨めっこ。週5日きっちり働くOLだったし、つまらなかったけれど辞めるつもりもなかった。だからこそ「こんな働きかたもあるんだ」と、旅先で遠くの空を眺めるような気持ちでいた。あれから何十年(綾小路きみまろ)、じぶんも同じような働き方をすると、あの頃のわたしは1ミリも想像しておらず、一番びっくりしているのはこのわたしだ。
昨日も馬詰さんとあれこれ打ち合わせの朝。質問されると提案もできるし、包みかくさずなんでも話ができる、同じだけ聞くこともできる。ずいぶんと長い時間が経って、挑戦させてもらったこと、頼まれたこと、断ったのにまた頼まれたこと、その全部を、自分なりにではあるが100%がんばったと言い切れる。そうやって積み重ねたものをきっと、永遠と呼ぶ。最近ではなんでもはなせるおねえちゃんのような存在。おねえちゃんは、ときどきおっちょこちょいで、強い南風のような勢いがあったかと思えば、足をとめてこまった顔をしていたりする。ほんとうのおねえちゃんがふたりいるわたしだけれど、おねえちゃんというのはいい。妹に無条件にやさしいし、わたしもおねえちゃんたちがだいすき。ねえ、ずっと元気でいてよね。

2025/07/06

黄昏どきってなあに?

 CHAHAT(チャハット)の大竹シャチョーは、人手が足りずにこまったとき、「ことりさん、手伝ってもらえませんか」と声をかけてくれる。ありがたいことだしうれしいけれど、大抵はかなり切羽詰まったときなので、前日とか前々日とか、そんな感じでシャチョーからLINEがはいる。こっちも忙しいがあっちはもっと忙しいことを容易に想像できるので、出来るだけお手伝いにいく。昨日もそんな日。スポット的なヘルプバイトだが、何度もこなすうちに、お店番をしながら請求書の送付、オンラインの発送、値付けなど、けっこういろいろできるじぶんがいる。バイト中の海の家『パパイヤ』も暑いが、チャハットズシもなんだか暑い。違う暑さ。エアコン効いているのかと疑いたい気持ち。なんか風がよわい気がする。閉店後に、「シャチョー、これ多分目詰まりしてますよ。掃除しましょうよ」とわたし。大きなシャチョーが椅子に乗り、小さなわたしは下でスタンバイ。エアコン開けてフィルターを取り出す。ほら!やっぱり!という状態だった。掃除を終えて電源を入れると、これまでのそよ風はなんだったのかというほど、勢いよく冷風が届いた。「ことりさん、エアコンの業者さんみたいだね」とシャチョーが笑い、「請求書出しときますね」とわたしがいって、また笑う。昼のお弁当を忘れたわたしを気遣って、シャチョーがスタッフに「お米、まだ炊いてない? ことりさんのお米も炊いてあげて。お弁当持ってきていないんだって」と言った。スタッフのエリさんがお米を研いでくれる。「大阪のお土産のカレーがあるから、それを食べて」とシャチョー。ランチの休憩時、えりさんがカレーの付け合わせのサラダも作ってくれた。いつもテンパリ気味で召集されるが、こころやさしい憎めぬシャチョーだ。

昨晩、娘が「ママ、黄昏時ってどういう意味?」と聞いてきた。その時間がどんなにロマンティックなものかを伝えるのに、言葉を選んで「夏なら夕方18時くらいとかの、まだ夜になる前の夕方の終わりで、空がピンクからオレンジに変わるときって感じかな」とつたると、結構すぐに理解してくれた。夫は、「英語だとトワイライトタイムね」と言っていた。わかりやすいのは、「夕日を見ながらビールを飲みたいなっておもう時間だよ」って伝えたいけれど、君にはそれがまだわからないんだよね。若いってだけでいいことはたくさんあるけれど、大人は大人でいい時間があるんですよ。歳をとるのも、わるくない。黄昏どきはとくにそれを、おとなに教えてくれる。

2025/07/03

合コンではないけれど

 海の家のバイトがはじまった。2日目にしてやること盛りだくさんで、てんてこまい。遠くからのぞいていたらしい友人が「全然気づかなくて、半径1メートルくらいしかみえてなかったよ」と言っていたが、50センチではなかったかと聞き返したいくらいだ。それでもピークには波があり、スロウな時間は手を動かしながらスタッフのみなさんと会話をかわす。当たり前だけど、みなさん本業をお持ちで、異文化ならぬ異業種交流を深めており、それが何気にすごくたのしい。「みもです。近所なので自転車で来てます。縫製の仕事をしています!」と、合コンふうに自己紹介する48歳、おばさん。

キッチンは未経験なので、目に映る様々なものが新鮮。ベイビーが沐浴できるほどの『寸胴鍋(ずんどうなべ)』なる存在もはじめましてだし、それをすくう柄杓(ひしゃく)のようなものもやたらと巨大である。わたしはミニチュアになったのかと、目の錯覚なのかとおもうほどの大きさが不意にツボってしまい、笑いが込み上げてくるダメ新人。「こんなに大きな柄杓はじめてです、神社でしか触ったことがありませんでした」と口にだしてしまった。声だけは通るので、「はい!」の返事だけはいい新人になっている気がしてまずい。はやく慣れたい。慣れたころに夏が終わるのだけは避けたい。
作業の途中で手元から顔をあげると、ビールジョッキを持ったたのしそうな人たちがカウンターの前を通過していく。背景は一面の海と、日によってはほどよい波。「いいな、いつもはあっちなのになあ」と思いながら、オーダーが入るとイカフライや唐揚げやラーメンをつくる。これまで、こんなに暑い厨房で誰かが素早く調理をしてくれていたのか。だからあの時間があったのかとおもうと、逆サイドにいてくれる人への感謝がうまれる。どっちがいいかと言われたら正直「はい、あっちです。あっちでビールが飲みたいです!」とはおもってしまうが、それはもう得意分野でキャリアもながいので、目をつむっていても上手にできる。この夏は、じゃない方の世界で社会科見学のような経験を。キャップとエプロンのカラーリングをたのしみたいが、帰る頃にはいつも全身がべとべとで、煤(すす)が手や服についている。なんだチミは! 煤もはじめましてだ。知らなかった、絵本の中に出てくるえんとつ以外は。

2025/07/01

素直でおしゃれなおんなの子?

 灼熱の銀座へ。連絡をいただき、20年ぶりくらいに、バイト時代のオーナーと会うことになった。当時19歳だったわたしと、ひと回り歳が離れたYさんは31歳男性。Yさんは西新宿のアイランドタワーという、当時できたばかりの高層ビルの半地下のような場所で、ちいさなカフェを営んでいた。オープンしたばかりだったとおもう。その頃のバイト探しといえば雑誌『フロム・エー』か『アン』が主流で、それ以外は店舗に貼られた張り紙だった。Yさんが営んでた『NYC (ニューヨークカフェ)』の募集は、店舗の外の壁に貼られていた。たまたま西新宿を散歩していたわたしは、そのビルの前を通りかかったとき、素敵なビルだなとなんとなく寄り道をしたのだった。19歳、大学1年生だった。

昔から制服ぎらいのわたしは、当時から雑誌でバイトの募集を見つけては、最初に下見にいき、まずは制服をチェックしていた。「あの襟はないなー」とか「あの色は似合わないからバツだな」と、壁に隠れて勝手に逆面接をし、自分好みの採用と不採用を繰り返していた。とんでもない学生である。そんな子は面接してもらったとして、不採用だったに違いない。
Yさんのカフェは、アメリカ(正確にはニューヨーク)が大好きなYさんのセンスが炸裂していた。ダイナーを意識した内装で、今思い返してもとても雰囲気のいいコンパクトな店だった。ラジオ・フライヤーを知ったのも、柳宗理をしったのも、エスプレッソをしったのも、そのほか書ききれないけれど、たくさんの知らなかったことを学んだのはその店だった。ワンオペレーションだったのも、制服があってないようなものだったことも気に入って、面接を受けた。当時のことはまったく覚えていなくて、「相当やらかしてました?」と聞くと「みもは素直でおしゃれなおんなの子で、気が合いそうだなーとおもったよ」と言ってくれた。へー!めっちゃくちゃガングロでしろいアイシャドウにメッシュで小室ファミリーの歌が好きでハワイが大好きなサーファーの女の子だったけれど、そんなふうにおもってみてくれていたのか。うれしかった。実際、Yさんとは確かにウマがあった。とてもかわいがってもらって、バイトの後に一緒にスケートボードをしたり、Yさんの運転するフォードで七里ヶ浜で波乗りとかもした。わたしの姉とも仲がよく、姉が当時ニューヨークの孤児院でボランティアをしていたとき、Yさんはニューヨークで姉に会ったりもしていた。家族もYさんを好いてきた。
そんなYさんと久しぶりに会って、ランチをし、お茶をし、たのしい時間。お仕事になりそうな意外な依頼を受けて、うれしかったし、実現するのかどうかわかないが、とてもたのしみな案件ではある。当時どうやってまわしてたんですかとか、ぶっちゃけ家賃いくらだったの?とか、家賃踏み倒したりしてませんでした?とか、年間売り上げは?とか、根掘り葉掘りきいて、ゲラゲラとウケる。当時アルバイトのひとりだったはわたしは個人事業主になり、すこしは商売のはなしもできるようになっていることも互いにおもしろくて、つくづく不思議なご縁で結ばれたYさん。当時付き合ったばかりの夫のこともよくしっているので(無職で長髪で6歳年上の彼を、Yさんは最初とても心配していた!)、もうほとんど親戚みたいな感じ。出会いとはほんとうに不思議なものだ。あの日、なぜ西新宿なんて散歩していたのだろう。普段はそんなことしないのに。きっと何かつよい力に引き寄せられたにちがいない。そうやって人は人と出会い、別れをくりかえしていく。